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​総持寺通りの歴史

─ 總持寺の門前 ─

■ 門前町の意味
 總持寺の開基は元亨元年(1321)であるが、總持寺門前の発祥はいつごろなのか、このことを明確にする文書はない。ただ慶長年間(1600前後)の長好連の「禁制」に「總持寺並門前」と、はじめて門前の名が出てくる。
 はじめ、どのような家々がどこにいつごろからたてられたのであろうか。家数に関するもっとも古い文書は宝永2年(1705)3月の「門前家数の覚」であるが、これによると総戸数46の内、工人28、商人12、労役6とあり、工人の内訳がまた大工、甍師、左官、畳職等全く總持寺御用であることが目立っている。このことから、はじめある時期に寺領内に總持寺が場所を指定して、前記の工、商、傭人を住まわせたものであろう。したがって、もとの境内であった亀山のふもと鬼屋川下流の川沿いに雑居したのである。

 実は二世峨山にはじまる五院輪住制や加賀藩前田家の外護が總持寺の発展を推進していくのであるが、この間幾多僧俗の去来があり、そのなかからあるものは定住し、それが時代を経るにつれて漸増し門前に集落を形成していったのである。
 したがって名はいわゆる門前町であるが、成田、善光寺、あるいは琴平のように、衆性に現世の利益をとき参詣者を吸引してその結果できた売店、旅館等が門の前にならんだいわゆる門前町ではもともとなかったのである。また元来曹洞は自力本願を説く宗派であって、その宗旨からいっても、家々の職種が参詣者のためというより全く總持寺の御用のための工人、商人、傭人であることからも一般にいう門前町ではなく、たとえば加賀藩の金沢における門前地、つまり寺院の境内を貸して町家を建てさせたもの(寺内町的性格)と同様に考えられるのである。
(谷内掃部)

■ 放生市
 門前大市「放生市」というのは、毎年總持寺で行われた「御開山忌法要」(九月十二~十五日)の「放生会」を中心に、近郷近在はもちろん各地から多くの参詣人が集まり、そのために「市」が立ったところから「放生市」と呼ばれるようになった。
 かさ屋、からつ屋、呉服屋、金物屋など肩をくっつけ合ったように道路の両側に立ち並び、その前に近郷からの買い物客が申し合わせたように大きな風呂敷包を手にし、油のよくきいたからかさをひらいて品定めをしたり、嫁や子どもの晴着や仕事着を買う算段や家族がむこう一年間使う茶碗を選ぶなどさまざまな人達で群れている。
 戦前、奥能登の町や村では年に一度、このような風景が「大市」という名で展開された。商業が今日のように発展せず、商品入手が困難であった当時では、この大市はその地域の人々の年間の必需品を購入する唯一の機会であった。毎年八月下旬、輪島市重蔵神社の夏祭りを中心にした一週間、富山、高岡、名古屋、大阪等の各地からの商人が繰り込んで、「お斉市」が開設されるが、これを皮切りに奥能登の主要祭日を中心に、それぞれ一週間程度の日程で巡回する定期市が開設され、土地の人々の商品入手の機会としていたのである。

 門前町ではこの定期市を「ホウジョウ」と呼び、この日は近郷の人達は寺口の店で年間の必需品を買い入れ、堀ばたの見せ物小屋や荒瀬の河原の草相撲などをたのしむ年に一度の待たれる行事であった。
 市はもともと物資交換の商行為であるが、古く荘園時代からこの地にも市がひらかれたらしく、「本市」という集落名や「旧市」という地名が残っていることからも想像される。總持寺が建立され、その寺口に町並ができてからは、市はこの寺口で總持寺の行事を中心に開設されたものであろう。總持寺では毎年八月十五日(陰暦)太祖大師の御征忌の際、放生会が営まれたが、その参詣に集まった善男善女をめあてに、翌日の十六日から一週間、總持寺門前の寺口で開かれた市が、今日の「放生市」に発展したものとおもわれる。
 放生市は總持寺の栄枯とともにあった。御征忌の際、全国から僧侶が雲集したというから、その盛事の参詣に集まる善男善女をめあてとする寺口の放生市の賑いも想像されよう。

 明治初年、暦法の改正により上堂は九月十五日となり市日も九月十六日からとなった。明治三十一年の大火で壮大な伽藍を焼失し、四十一年鶴見への移転によって寺口の賑わいも往時のおもかげがなくなると、いつごろからか大市も總持寺の行事と関係なく展開されるようになり、奥能登一円に展開される定期市の一つの日程に繰り込まれて、十月上旬となり、場所も交通混雑の理由から總持寺の門前を通る国道をさけて横町に開設されるようになり、さらに總持寺通りに移った。しかも商業や交通の発達した今日「放生市」はかつての年間の必需品購入の唯一の機会である性格も失せてしまった。それでも近郷の人達にとっては当日は家族そろってのショッピングの日として待たれるレクリエーション的行事として続いている。

■ 門前の中心部
 字 門前
 字門前の集落のなりたちについては、前述第1節のとおり、はじめ總持寺境内北側(亀山墓地の西及び北麓)に散在した住居がそれであり、したがって町筋すなわち今日のような市街をなしていなかった。堅町の道筋の発端は、以前三松関から興禅寺に通ずる境内の小路であった。それと通称裏門といっている寺小路の2本の道路沿いにあったいくつかの塔頭が、幕末から明治初期にかけて移転或いは廃寺となるにおよんで、主として鬼屋の住人たちがここに移り家をいまのように並べた。それに亀山墓地周辺の住居がつながれて(横町)字門前の道筋が形づくられていく。明治以後、總持寺が本山でなくなると、總持寺の用をつとめてきたこれらの家々は商業への転換を迫られ、八か谷の需給に関心をもつ商店となり、いわゆる町筋の形態をとりはじめるのは、明治も後期にはいってからということになる。
 現役場の位置は、前櫛比尋常小学校跡であり、元は總持寺境内三松関門前であった。總持寺道路元標のあるこの地点が、いわば字門前の発起点であり、また現在門前の中心である。

 字門前の明治期は、職業転換の時期であったといえる。住民は總持寺の仕事を捨て職業転換をせまられ庶民相手の商人ないし、商店へ脱皮していく過程であるが、町並の位置や規模は殆んど変えずに今日にいたっている。
 しかし、大正期を経て昭和期にはいるにしたがい、街路の補修や若干の新設があり徐々に東へ延伸していく。

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 現在、門前の中心部は、門前中央商店街として、字門前、走出をとおり東へ字日野尾→広瀬→深田に伸び本市につらなろうとしている。西は厩に字舘につながってしまっている。この急激なぼうちょうは、間接的には戦後の日本経済の高度成長の影響であり、直接的には、昭和29年の町村合併につぐ34年の水害復興が中心部に経済的恩恵をもたらしたことによる。日野尾、広瀬は、走出新保崎からつづく穴水輪島往きの街村であって、商店街ではなかったのであるが、戦後あるものは街路に出て家を建て、あるものは商店をあらたにはじめ、いまでは一連につながってしまったのである。合併が八か谷の中心化に一層の拍車をかけた結果といえよう。

 昭和11年、「横町」の狭い道路をさけるため、「堅町」の突端から日野尾へ直線で新道をつけ、さらに日野尾前の八か川流路を北に変更して日野尾、広瀬区内の道路を拡張した。これは、穴水往きの道路整備の一環として施行されたものであったが、いまでは、そのためその新道が商店街の主要道となってしまった。ひとつにはここに戦後北鉄門前自動車区ができたので、門前の表玄関になりかわったからでもある。
 とにかく、このようにして門前の中心部は舘にはじまり深田にいたる約1.5kmの中央商店街となったのである。
(谷内掃部)

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